|
海老原喜之助「雪景」-末永画伯夫妻より寄贈への道のりについて
「Paysage de neige(雪景)」は陽山美術館に末永画伯夫妻より寄贈される迄にすばらしい物語がありました。それが、【海老原喜之助「Paysage de neige(雪景)」-寄贈への道のり】に記されています。
【きっかけ】
2002年1月16日、パリ在中の洋画家 末永胤生画伯(1913年〜2009年)夫妻が所有しておられる海老原喜之助(1904年〜1970年) の作品 「Paysage de neige(雪景)」を、陽山美術館に御寄贈いただきました。これは、海老原と同じ独立美術協会の会員であった末永画伯夫妻の海老原の郷土鹿児島にこの大作を里帰りさせたいという、温かいお気持ちから実現することとなったものです。
永く鹿児島大学で教鞭をとられた大嵩禮造画伯の紹介により、お互いを知ることとなりました。
「Paysage de neige(雪景)」は末永氏が永く手元に愛蔵してこられた作品ではありましたが、当館館長の井後吉久が昔海老原家と同じ鹿児島市の住吉町に住んでおり親交があったこと、海老原喜之助の作品をコレクションの中心とし陽山美術館を立ち上げ、現在もそのコレクションの充実を図っていることなどを理事の中間忠博が説明し、ご理解くださり、今回当館に御寄贈いただけることとなりました。
【作 品】
この作品が描かれたのは、今から約94年前の1930年です。ちょうどその頃、26歳の海老原には長男セルジュが生まれ、喜びと気力に満ち溢れていた頃と思われます。大画面に丹念に描かれた雪景と人々、そして雪景色であり
ながら画面全体にあふれる温かな雰囲気は、海老原の充実ぶりを感じさせてくれます。
この作品はブラックなどを推進した評論家兼画商、蒐集家で、前衛作家のパトロンとしても知られるアンリ・ピエール・ロシェ(1879年〜1959年)が永く所有していたものです。ロシェはエコール・ド・パリの全盛期であったフランスでピカソ、モディリアーニ、キスリングなど当時活躍していた画家たちと幅広く交流し、海老原喜之助がロシェとプロとしての契約交わした同年同月日にピカソもロシェと契約を交わし、その後の飛躍はご存じの通りです。
ピカソの作品を直接買う事ができた数少ない画商としてよく知られています。晩年には作家としても活躍し、小説が映画化させるなど多彩な才能の持ち主でした。
海老原は、滞欧4年目の1927年に第10回サロン・ド・レスカリエに招待出品し、「姉妹ねむる」が当時の批評家の激賞を受けます。詩人で批評家のフランソワ・フォスカによって、エコール・ド・パリの新星と推奨され、その縁でロシェ画廊と契約を結びました。これはロシェが海老原の画家としての才能を評価したことにほかなりません。
このため、海老原が滞欧11年間(1923年〜1934年)のうち後半の約5年間に描いた海老原ブルーと言われる「雪景」シリーズは、そのほとんどがロシェコレクションとなっていました。
その後、海老原が帰国し、ロシェが亡くなり、遺言で海老原の作品はほとんど全て日本に里帰りすることになります。
しかし、今回の寄贈を受けた「Paysage de neige(雪景)」はこの時ロシェ夫人の手元に残され、有名なロシェコレクションに最後まで残った海老原作品となったようです。
1970年海老原はパリ16区で客死します。この死によって、ロシェ家遺族の方が最後の「Paysage de neige(雪景)」を手放すことを決意したと思われますが、その翌年、ロシェ遺族からパリ6区にあるジャン・クロード・リエーデル画廊の主人を経て、末永画伯夫妻が買い取られ、その後人手に渡ることなく(1991年にフジタとエコール・ドパリ展【モンマルトルのパリ市立美術館で開催】へのみ貸し出しましたが、それ以外は譲り売ることも貸すこともありませんでした)、末永画伯夫妻が所蔵されて来ました。
そして2002年1月16日、末永画伯夫妻より当館へ寄贈されることになり、「Paysage de neige(雪景)」の鹿児島への里帰りが実現しました。
※現在、雪景は鹿児島市立美術館に他の絵画と共に寄託しております。
|
|
|